志信会創設の経緯
『大西信弥の被害者』の皆様
拝啓
梅雨の候、時下ますますご清祥の段、お喜び申し上げます。平素はひとかたならぬ御愛顧を賜り、厚く御礼申し上げます。さて、先般より、私が主宰致します「志信会」設立に到る経緯と、小池百合子代議士ならびに同政治塾「百志塾」と私の関り、さらには小池青年部も任じていた「新世紀開拓コミュニティ」のその後についてのお問合せやご質問、苦情などが数多く皆様の下に寄せられていることに対しまして、衷心よりお詫び申し上げます。また、本来であれば、お一人おひとりに直接お目にかかり、お時間を頂戴するのが筋ではございますが、このような書面にてのお詫びと、これまでの経緯を記した随筆を添付させていただく失礼を重ねてお詫び申し上げる次第です。
振り返りますと、おおよそ2000年の初頭(一部の方々につきましてはその前年)から、皆様には一方ならぬお世話になり通しで感謝の言葉もございません。その年、おりしも総選挙が重なったことから、皆様にお声がけする機会も激増し、いつの頃からか、「貴方も大西さんの被害者ですか?」というフレーズが、新しく参加された方々に対する合言葉になった事実ひとつを取ってみても、それぞれの胸中に去来する思いは如何ばかりであったろうと、皆様のご厚意に対し、今はただ、ひたすら恐縮するばかりです。
政治に深く関っていく過程では、あらゆる事柄が目まぐるしく流転し、経済社会でいうところの“朝令暮改”よろしく、「正義」や「理念」が観念的なものであるだけに、これまでに培ってきた私の物事に対する理解を遥かに超え、何が正しくて、何が間違いなのかをさえ、容易に結論付けることが出来ない事象の連続や、また、民主主義⇒多数決⇒数の論理に代表される「権力」に対するコミットの仕方が一様でなく、“実と思えば虚、虚と思えば実”さながらに、有体にいえば“恥も外聞も”恐れぬ政治家諸氏の多くに、畏怖の念を禁じ得ませんでした。必然、私自身もあらゆる事柄に柔軟に対応すべく、与えられた環境のなかで常に最善を希求してきた行動が、多くの皆様の視点からご覧になれば随分と変容を遂げたと映っているのかも知れません。
小池代議士との出会いから、今回の志信会設立に到るまでの経緯を添付の随筆に認めましたが、政治というフィールドは刻々と移ろい、“過去”の事象として語るにはあまりにデリケートな問題を数多く含んでおり、また筆を執る自身の稚拙さも手伝って、皆様のご理解を戴ける内容には程遠いかも知れませんが、以ってこれまでの皆様の御労苦に報いるための、精一杯の感謝の記しとお受け止め戴ければ幸いに存じます。
敬具
平成15年6月17日 (新世紀開拓コミュニティ前会長)大西信弥 拝
“わが為すこと、我、知る”
~志信会創設までの経緯~
Ⅰ.小池代議士との出会い
1999年8月2日、伊丹ホール地下1階。私が長を務める伊丹納税協会青年部の執行部役員一同はその日、例え様のない緊張感に包まれていた。紆余曲折を経て、会の趣旨にこれほど似つかわしく、且つ、違和感を覚えるゲストを招くという高揚感は、各人ともこれまでに経験したことのない類のものだった。果たして、その日のスペシャルゲスト“小池百合子代議士”は、集まった40名の会員(及びその妻)を魅了して余りある華やかなキャリアとルックスで圧倒してしまったのである。会の成功に安堵しつつ、執行部役員で催した二次会でも気さくに振舞う、この日より数週間前、初めてお会いした時にも感じていた“目線が合う”とでも表現すればいいのか、妙に偉ぶるところない等身大の“先生”と、打ち合わせ等で、すでに何度か会話を交わしていた今井克枝女史(聞けばこの後、東京まで車で代議士をお送りすると知り、暫し絶句!)の二人に私自身、大いなるシンパシーを感じ、その夜は「お二人とも無事東京へ到着されますようにと」念じつつ、これから何かが始まるという予感と期待感に胸をときめかせていた。
Ⅱ.組織結成に向け
講演会の成功を受け、私は再度、同趣意の講演を同会で企てようと、上部団体、所管の役所に赴いたが、覚悟していた以上の逆風に遭う。詳細は割愛するが、この頃から、今協会に限らず、真に会員が望む催しを阻む“既存の組織体”というものに限界を感じ始めていた。小池代議士の願いは、自らを支援することの出来る保守系若手経営者の組織化であり、私を含む当会青年部主要メンバーはその資格有りとの結論から、秋の気配が漂う同年10月17日、参加21名の有志による第1回K.Y.フリーディスカッションの会を開催。この頃から、当会青年部メンバーであり同い年にあたる木挽司氏との間で頻繁に会い意見交換をする過程で、彼のその並々ならぬ地域社会(コミュニティ)へのコミットメントと、社会に対する“止まない怒り”を知ることになる。
はやる私とそれをなだめる木挽氏との間で、声がけするメンバーや日程の調整をはかり、2回目のK.Y.フリーディスカッションの会が開催されたのは、明けて2000年の2月19日、参加者は26名で、場所も前回と同じ宝塚グランドホテルだったが、今回は小池代議士が前近畿通商産業局長の一柳良雄氏を伴って来阪、氏の「変革する日本経済とその課題」とのテーマで講演の後、ディベート形式で会を進行した。そして、質疑応答の場面で、やはり伊丹納税協会青年部で私を補佐する立場にある石崎隆造氏の質した「「政治であなたは何を変えられますか?」に対する、「そういうあなた方こそ何ができるのよ!!」という小池代議士の返答は、当時、長い挫折感の中で自らの使命を模索していた私にとって、まさに己の運命を変えるほど大きなものだった。
Ⅲ.国が何をしてくれるかではなく~
私の「被害者」とも称すべき方々には、大抵一度や二度はお話をしたことの繰り返しになるが、今回に到る経緯を語る原点として、やはりこのことには触れておかねばなるまい。
16歳で結婚を約した、当時高校の同級生との誓いが実り、充実した生活を送っていた二人だったが、どういう訳か子宝に恵まれず、思い悩んだ挙句、訪れた病院で知らされた衝撃の事実は、当時、健常者の10万人にひとりもいないといわれた「突発性無精子症」という診断だった。まだ若かった私 (23歳)にとって、この事実がその後、どれだけ重く圧し掛かったかは敢えてここでは触れないが、25歳で妻と別れる決心をし、海外に飛びだして以来、あの日、あの言葉に突き当たるまでの17年間は、大袈裟にいえば、この世で生を受けた意味を問いつづけてきた日々であった。
今振り返ると、この時の問答は、国が何かをして「くれる」という受動から、国のために何が「できるか」を問う能動的社会に切り替える発想が、43歳の若さとともに、鮮烈な響きと感銘を全世界に与えたJ・F・ケネディの「ask not what your country can do for you.ask what you can do for your country」(国が何をしてくれるかではなく、諸君が国のために何ができるかを自問してほしい)そのものだった。浅学な私だが、このフレーズ位はそれまでにも何度となく耳にしていたし、また、その意味も充分理解をしているつもりだった。しかしながら、論語読みの論語知らず、実のところ、それまで一度も心に響き渡るようなことはなかったのである。いずれにせよ、その日から、私のミッションは明確なものになった。即ち「我らが郷土を代表する、素晴らしい理念を持った政治家小池百合子を支えることにより、以ってこの国の未来の為に尽くさん」と…。
Ⅳ.新世紀開拓コミュニティ設立
2回目の会が開催されたその月のうちに、私は心から信頼を置くことができ、自由裁量で活動が可能な経営者を中心に、自宅で時には朝方まで話し合い、小池代議士の親衛隊を組織することの同意を取り付けた。当時、通称5人組といわれたメンバーのなかでも、前述の木挽氏はこれまで政治に係ることを極度に嫌い、政治というフィールドに於いては、旗幟を鮮明にしないことが自らの最大の強みであるとさえ壮語していただけに、彼を創設する会のサブリーダーとして、首を立てに振らせるのは容易ではなかった。また、小池百合子事務所から「心ある」同世代の地元支援者を紹介してもらい、会創設の呼びかけに走った。(円城寺氏との出会いもこの頃のことである。)さらには「気の会う仲間だけでなく、保守系を代表する若手経営者が集うJ.C.のO.B.にも声をかけよう。」という今井秘書の発案から、3月17日、初めて都合9名が一堂に会し、第1回新世紀開拓コミュニティ設立発起人会を開催するに到る。ちなみに「新世紀開拓コミュニティ」の命名も、木挽氏によるものであり、この名前はその後の彼の運命を左右することにもなる。
会議の場で取り交わされたポイントは、設立総会のゲストスピーカーに誰を呼ぶのか。結論は到って簡単で、小池さん(この頃から小池事務所で取り決めになっている呼称“小池さん”と抵抗なく呼ぶことが出来始めたことから、以降は小池さんと表記)の尊敬する自由党小沢一郎党首を招き、保守系若手経営者を中心とした組織設立の起爆剤に出来ないかというものだった。幸い、小池さんは「日程さえ合えば必ず来て下さる」ということで、瞬く間に場所や迎えの手配までが決まってしまった。今振り返っても、あの日のメンバーは高揚していたと思う。
設立総会を4日後にひかえた4月3日、まさに晴天の霹靂ともいえる出来事が…。私はたまたま仕事で海外に出かけており、しばらく日本を離れていた。飛行機を降り、ターミナルに入って携帯のスイッチをONにした瞬間、まるで何処かで観察していたかのように着信音が…。なんと、この日の朝、小池さんが自由党を離党し、新党に合流することになったと、今井秘書から告げられたのである。その夜、急遽行なわれた2回目の設立発起人会で私は「筋論かも知れないけれど、小沢党首と行動をともにすべきではないか」と申し述べたが、出席者の多くがこの選択を了としており、というより、問題は小沢党首に成り代わり、誰を代役に指名するかに移っていた。すでに、50名もの方々に案内文を出しており、またその知名度からだろうか、当初の予想を上回る出席の返答をもらっていたのだから、当然といえば当然だったのだが…。
そして、その3日後の2000年4月7日、ついに新世紀開拓コミュニティが発足した。小沢党首の代役には、2月にも来阪した一柳良雄氏が東京から駆けつけ、先回にも増して力のこもった話を拝聴した。伊丹第一ホテルに於ける参加者41名による設立総会は、各位の協力によりともかくも無事出港することができた。なお、同氏にはその後、東京に伺い、新会の相談役への就任を了承頂くことになる。
Ⅴ.2000年総選挙
翌5月、期せずして選挙モードに突入し、兵庫6区各地区の事務所開きや、小池さん主催の会合にも声をかけ始めた頃から、「会の趣旨は著名な経済人等を招いての勉強会ではなかったの?」という質問を受ける場面に遭遇し、選挙を目前に控えていたことから、私は小池さんに無理を願って、設立総会から未だ間もない6月7日、伊丹ホールにサン・マイクロシステムズ㈱会長の本田敬吉氏を招き、第1回研修会を開催した。今にして思えば、これだけのビッグゲストに対し参加者が35名というのは、やはり選挙に巻き込まれるのを回避したいという会員の心理も働いていたのかも知れない。また、個人的なことながらこの前後の私のまわりでは、これでもかとばかりに色々な出来事が起きた。父の癌が再発、二度目の手術をすることになり、(結局、父自身の判断で小池さんの選挙が終わるまで手術を延期)母は夜中に救急車で病院に搬送され、膜下出血の疑いありで即入院等など…。
選挙中は、この年の暮れに、亡き父の弔い補欠選挙に挑むことになる北川氏の指南役も兼ね、代議士と彼の3人、地元支持者の自宅や集会所を毎日訪ね歩いた。申し上げるまでもなく、我が「被害者」各位も、ポスター張りに始まって、会社のスタッフや、奥方まで駆りだした方、自治会のオジさんに電池の使い走りをさせられた某上場企業の役員等など、それこそ新世紀メンバーが一丸となって選挙を戦った。
幸か不幸か、坂上善秀代議士との事実上の決勝戦を政治的戦術で制し、与党統一候補者としての立場を確保した時点で、陣営には楽勝ムードが漂っていたが、選挙戦初陣の私にとっては、残念ながら危機感を察知できるだけの思慮を持ち合わせていなかった。最初に出た開票速報はよもやの3位、その後も最後まで一進一退を繰り返し、万歳をしたのは午前0時をまわっていた。小池さんと二人車中に、選挙事務所から僅か数百メートルのところで、とっくに出ているはずの当確マークを待ちつづけた90分間の重い空気を今も忘れられない。
結果的には辛勝したが、あの日以来、使命に燃えて走ってきた私にとって、「このままでは次回の選挙では勝てない。」という焦燥感が、これまで以上に選挙、いや政治全般をもっと詳しく探求しなければという思いにつながり、選挙が終わった2ヶ月後には妻と二人、都内賃貸マンションを物色していた。タラレバはないが、あの総選挙で、もし小池さんが他の追随を許さず圧勝していたら、ここまで私の人生も大きく変遷することはなかったかも知れない。当選祝いを兼ね、新世紀開拓コミュニティの会合を催した8月28日、所用でキャンセルした小池さんになりかわり、NHK解説委員の藤田太寅氏が東京から駆けつけた。「産業改革の流れとニュービジネス」というタイトルで講演を頂いたが、懇親会の席で、鬼の居ぬ間にしっかり本会の相談役への就任交渉を取り付けてしまうあたりは、今振り返れるとこれも今日を迎える予兆だったか。
Ⅵ.東京の景色
時間が許す範囲でという約束で、10月より正式に国会議員会館に出入りをすることになったまさにその週から、大事件勃発でてんやわんや…。これ以降の出来事については、オフィシャルになっていることを除いては、今後も一切話をするつもりはないが、東京時代を振り返ると真っ先に2つのことが思い浮かぶ。1つ目はこの年の暮れ、2000年12月19日から2日間、小池さんの御付として東京の野口秘書と共に、7名の超党派の国会議員各位をフォローしながら台湾を訪問したこと。各国会議員との接点も含め、李登輝前総統に接見できたことは人のオーラを感じるという部分で強く印象に残っている。また、帰りの台北空港待合室で上背のある二人の日本男性と遭遇するのだが、それが中田現横浜市長と陳志瑋氏(後述)だと知ったのは随分と後のことである。こういった体験こそ、地元の若手経営者の方々にも体験してもらおうと仲間に呼びかけ、翌2001年2月10日から4日間、エジプトに飛んでワリ副首相以下、主要閣僚の数人と挨拶する機会や、小池さんが推進する「日本エジプト友好の森」植樹式に多くの出席を見た。小池さんの、かくも素晴らしい草の根活動をいかに選挙民に知ってもらうか、寝ても覚めても熟考していたのもこの頃である。ここに改めて、エジプトまでご一緒して頂いた「被害者」各位に感謝申し上げる次第である。
そして2つ目はコンビニ弁当。選挙区の支持者の皆様はご存知ないだろうが、朝早くから小池さんはクタクタになるまで心身ともにフル活動させ、その日の終わりに高輪議員宿舎へ向かう道すがら、コンビニで弁当を購入した後、ビニール袋を下げながら宿舎に入るのが日課だった。宿舎でその後ろ姿を見送りながら「国会議員って一体何なのだろう…」という無力感やせつなさ、怒りや憤り、諦め等がない交ぜになり思わず涙してしまった夜。たった一人でこの世界に飛び込んだ頃も、そして今も小池さんは全力で戦っている。それを一番よく知るひとりが私であるという自負はこれからも変わることはないだろう。
Ⅶ.“百志塾”の設立
総選挙が終わり、私自身がその年の秋から居を東京に移して、議員会館に出入りをするようになったことで、俄然、新世紀開拓コミュニティの位置付けが不透明なものになってきた。すなわち小池サイドからみれば、この組織はより小池後援会青年部的な色合いを濃くしており、また、創設時の執行部からすれば、これはあくまで自主運営の組織であって、後援会の下部組織として位置付けられるのを了としない。ましてや一般のメンバーにとっては、小池さんとの関りはあくまで数年に一度、選挙の時に支援すればいいだけの認識しかないのに、後援会主催の会合の度に呼び出されたのではたまったものではないというところだろう。当時、執行部以外には相談しなかったが、小池さんはより直轄の組織を希望しており、すでにその名を“百志塾”と命名していた。さらに、「総会の席で『名称を変更します』と宣言すればいいのよ」というご無体な提案をする始末。(私は私で、本総会に後援会の宮内会長を引っ張り出すつもりで駆け引きしていたが…)果たして、2001年5月25日、設立一周年目の総会には、宮内義彦・オリックスCEOに来て頂いたが、背後には百志塾設立記念講演会と銘打ってある表記が…。そう、メンバーはほとんど認識していなかっただろうが、実は、あの日が百志塾の設立日なのである。そして、新世紀開拓コミュニティの存続と設立趣意を死守しようとした私は、百志塾設立の経緯ついては触れることなくその会を終えた。その事が後に真綿で首を締められるかのように、私の立場をより難しくしていくことになるのだが…。
Ⅷ.若武者達との交わり
その年(2001年)の春、ひとりの才気煥発な若武者が東京小池事務所にやってきた。その名を中山泰秀という。人あたりが柔らかく、腰も低く、何より頭の回転が速い。もしも秘書道というものがあれば、同じ土俵ではとても彼には敵わないと私は3日でシャッポを脱いだ。実はその2ヶ月前、大阪府議補欠選挙の応援に、小池さんと一緒に彼、泰秀氏を訪ねていたのだが、演説はうまい、ルックスもいい。(彼が気にする)背の低さでさえ、選挙の戦い方ひとつでチャームポイントになる。さすがはあの中山大臣の御子息、これはモノが違う、そう感じていた。しかし、彼は落選した。聞けば、比例区ではあるが過去に二度、国政選挙にも出馬しやはり落選しているという。一体自民党って?…。後に譲るが、この若武者と時間を共有した日々は、実は、後の私の行動に深く影響している。
違った意味で、私の中で印象的な人物がもうひとり(ここでは名前を伏せる)。2001年6月、三期目を目指して尼崎市議選を戦っていたこの候補者は、聞けば日本新党結党時からの生え抜きで、今も小池さんへの忠誠心厚く云々とのこと、会うことをとても楽しみにしていたのだが、実際に交わってみると、(こういっては失礼だが)どちらかというと、ブラ下がりの印象が拭えず、当新世紀への入会を再三勧めても全く反応がない。小池ブランドに頼って過去の選挙を戦ってきたせいか、決起集会は、ここでも無理を押して来てもらった「被害者」の会各位だけがやけに目立っていた。事務所からは選挙戦本番での応援要請もあったのだが、私はこのときばかりは声がけする気になれず静観。結果は惨敗であったが、小池さんの「これで日本新党結党当時の子飼いがひとりもいなくなった」というポツリと洩らしたひと言に、私は真の後継者達の育成に着手しなければとの思いをより強くする。
東京や地元事務所にも、秘書志望や、あるいは後援会青年部に入会希望のアクセスがある。前述のような経緯もあり、そんな場合は私がコンタクトをとり、時には直接会う。落胆して帰ってくることもあるが、2001年9月28日、議員会館の地下一階で初めてあったこの若者は、まるでかつての私を見ているような直向さと危うさを同居させていた。「ニューヨークのテロ事件を見て、もうこれは直接政治に携わらなければ間に合わないと思った」と語るその青年は、米国でジャーナリストとしてのキャリアがあり、海外僻地にもしばしば赴き語学も堪能、元自衛官を父に持つことが何より誇りだという。その男の名は道下修。参加した方は覚えているだろうか。彼のデビュー戦は、私と出会って僅か数週間後の10月18日~19日の新世紀東京研修会。ホスト役として、30人をもてなした懇親会もさることながら、その翌日の防衛庁見学は、彼にとっては忘れることの出来ない、誇らしいエスコートだったのだ。その後、私は道下を小池さんの秘書として推挙する。
Ⅸ.“政治”と“経済”の分離
年が明けた2002年2月、秘書になったばかりの道下もホスト役として参加した宝塚ホテルに夫妻を招待した新世紀開拓コミュニティ研修会は、私にとっては本当に複雑なものだった。「とにかく、大西がいうのなら仕方がない…。」そこに集った人達は、まさに「大西信弥とその被害者の会」のメンバーに相応しい顔ぶれで、もはや、新世紀も小池百合子もない。ただ、大西が声をかけてきた以上顔を出さないわけにはいかない。それぞれの顔はそう物語っていた。「このままでは、小池さんのためにも、当初、会に集っていいものを吸収しようと参加された方々にも申し訳が立たない。」私は半ば泣きそうになっていた。そんな思いから、前年からの懸案であった政治(百志塾)と経済(新世紀開拓コミュニティ)の分断を決意する。まずは、百志塾を誰が引き受けるか…。是も非もなかった。私がやらねば誰がやる。では、新世紀はどうする?手塩にかけて創った組織を早々と手放すのは断腸の思いであったが、石崎氏の「ウルトラマンじゃあるまいし、今日は新世紀、明日は百志塾では誰も納得しませんよ。」との助言に妙に納得。そこで私は、創設期からの盟友、木挽氏に詳細を説明した後、会長職を引き受けてくれるよう依頼。それを心よく受け入れてくれた彼は、自らのスタッフを招集すべく積極的に行動してくれた。従来のスタッフに若干名の新理事を加えるとの報告を受け、安堵した私が次に直面したのは総会講師の問題であった。小池さんの求める若い政治家志望者と、自らを支援する青年経営者の発掘という両方を満たす動員を目指すには、この春、横浜で奇跡を起こし、政令指定都市全国最年少で横浜市長となった中田宏氏しかいないと思いから、再三再四小池サイドを説得、何とか日程を取り付けた。同時に、この夏を以って二年近く過ごしたマンションを払い、地元に戻る決心を固めていた私は、この会をこれまでの総決算と位置付け、あの大震災を契機に、兵庫県下の青年経営者で立ち上げた旧兵環商青年部のメンバーや、新世紀出発の原点になった伊丹納税協会青年部の全メンバーにも声がけをするべく、あらかじめ各事業計画に盛り込んだ。さらに、東京で知り合うことの出来た新しい仲間達にも参加を呼びかけた。また、中田市長サイドとは事前打合せを兼ね、横浜に赴いたのだが、そこでひとりの凄い男に出会う(厳密にいえば再会)。その名は陳志瑋(彼についての記述は次の章に譲る)。2002年7月31日、新世紀開拓コミュニティ、百志塾による総会を含む研修見学会が2日間に渡って東京と横浜にて開催された。以下は会報に載せた報告書からの抜粋である。
【初日、朝一番の新幹線で東京入りした一行は、国会で本会議を傍聴した後、議員食堂で昼食、保守党野田毅党首、小池ゆりこ代議士らと歓談。国会議事堂内を見学した後、衆議院第一議員会館に移動。兵庫13区選出の山口つよし議員から、最新の国際情勢を背景に現在の日本の問題点を検証してもらい、国政の現場を実感。その後、横浜へ向かう大型観光バスに乗車。到着後、開拓コミュニティの総会が横浜ランドマークタワーの25階にて開催された。まず、司会の石崎理事から会計報告を含む議事報告がなされた後、木挽新会長・中田新副会長への新体制の移行が発表された。木挽会長が、東京・横浜から合流したメンバーの前で新たなる挑戦を誓った後、大西前会長が百志塾の本格稼動のための中核として、社会の改革に取り組んでいく決意を表明した。その後、保守党の小池ゆりこ代議士が講演。午後6時、中田宏・横浜市長が会場に到着。約10年前の日本新党時代からの小池代議士との縁や3期務めた衆議院議員としての活動に言及。「無から有を作り出すことは難しい」「しかし挑戦していかなくてはならない」との言葉には、何とも重たい実感が込められていた。午後7時からの懇親会は80名を超える出席者が、横浜ランドマークタワーの最上70階、日本でも指折りの夜景が広がる絶景を見渡すなかで、名刺交換ならびに記念撮影が和気藹々とした雰囲気のなか実施され、終了後は、中華街に繰り出すなど夜遅くまで港町・横浜の夜風を満喫した。翌朝、一行は、大型バスへ乗車。横浜サイエンスフロンティア~昼食をキリン麦酒工場併設レストランで済ませ、財務省印刷局滝野川工場へ。見学を終え、一行は再度バスで議員会館へ。早速、財務省の由布氏、環境省の佐々木氏からの集中レクチャーを受けた。午後4時過ぎ、大型バスで東京駅や浜松町駅へとメンバー各位を送迎。新幹線、飛行機にて各自家路に着いた。今回の東京・横浜研修は、月末の平日に開催されたこともあり、途中参加もしくは途中退席を余儀なくされるメンバーも数名出た。しかし、東京近辺の新規メンバーが参加したことや新たな異業種交流を深められたこと、そして何よりも公私を超えたなかで個人の信念・信条などの意見交換できたことは、新体制の新世紀開拓コミュニティにとって大きな財産となったといえよう。(文章 木挽 司)】
Ⅹ.陳志瑋
過日、中田サイドとの事前打合せで会った陳氏をひと目見た時、山のようにデッカイ男(心身ともに)だと感じたのだが、横浜での総会の後、政治に対する取り組み方やその世界観、さらには生い立ちや死生観に到るまで、語り合うほどに、ここまで自分と共通する思いを持つ男がいるのかという驚きと嬉しさで、彼と朝方まで横浜のバーで飲み明かした。市長選への出馬を逡巡する中田(当時)衆議院議員を、「ここで決断しなければ、おまえは政治家として終わりだ!」と看破し、たった4人であたかも400人の支援者が控えていると思わせたエピソード等など、中田‐陳の友情、信頼関係を垣間見るようで、また、小池‐大西の関係を重ね合わせ、無力感に苛まれるような場面でもあった。その際、秘書の道下修とともに、最後まで傍らで二人の会話に聞き入っていた、今ひとりの男についても触れねばなるまいが、その時点では、まだ私は、彼の真価を見出していない。その男の名を佐久間敏雅という。彼についても後の章で触れてみたい。
前述のように、正確にいえば2000年5月25日に発足した百志塾であったが、この年の7月31日、名実共に皆様の承認をうけて活動を開始する。陳志瑋氏にアレンジを頂き、9月7日、宏友会の会合に参加した後、宏援連合会の猛者達に選挙の要諦と題する講義を受講。帰りの新幹線の車中で、同行した石崎氏の「彼らと比べたら私らがやってきた事はお子チャマやねえ~」は言い得て妙であり、同時に、私にとってはこれからの道の険しさを実感させられる言葉でもあった。さらに、関西市民大学講座事務局のご協力を頂き、9月27日、大阪産業会館4Fイベントホールで行なわれた中田宏氏講演会「日本を変える」に30名を上回るメンバーと共に参加し、中田市長を含むチームと再会。その翌々日の29日には小池さんとの話し合いにより、百志塾構想(資金調達)に対する理解も得、早速その日から月々一口壱万円の高額にも関らず出資願える方々を募るため、その説明に赴いた。また、スポンサーの確保と同時進行で、当然のことながら塾生の発掘、トレードにも重点に置いた。この前後の経緯については、出来る範囲で皆様には誠実にお伝えしておく必要があると思われる。
ⅩⅠ.政治塾一期生
木挽司。皆様すでにご承知であろうが、彼を政治の世界に引きずり込んだ張本人はもちろん私である。当初、新世紀開拓コミュニティの創設時に、旗幟を鮮明にすることを求め、この年の夏には、初期の課題であったメンバー個々の研鑽に繋がる活動を展開すべく、二代目の新世紀開拓コミュニティ会長を願ったばかりであったが、百志塾の活動を具体化させる過程で、翌年の統一地方選挙に挑む塾生の養成、発掘する命を小池事務所から帯びていた私は、現役の学生達やその仲間と会いながらも、地域を変えていくには若さだけでなく、彼のような卓越したディベート力と豊富な経験をこそ活用すべきであると考えていた。
一方、秘書として小池事務所でお世話になり、1年近い経験を経た道下もまた、出会った時から近い将来、日のあたる道を歩いていくべき男であると感じていた。はからずも、事務所サイドとの意見交換のなかで、にわか道下を翌年の宝塚市議候補にという話が持ち上がり、私も全面的にその考え方を推進。木挽氏を交え、選挙での共闘戦線を練るところまでの話をしていた。木挽氏については仕事や家庭との兼ね合い等など、説得には大変な時間と労力を要したが、彼がその真意を汲み取り、「よし、やる!」と腹をくくってくれた時には「万一にもこの男を落としたら一緒に心中しよう(政治的)。」と誓ったものだ。9月末までには二人ともが揺るぎない決意を秘め、翌月には、木挽氏は伊丹に住民票を移し、道下は私の自宅に引っ越してきた。
ⅩⅡ.事態の急変
詳細を記述するわけにはいかないが、この年の秋、道下がプライベートで抜き差しならぬ状況にあることが明らかになり、それが公になれば自身の選挙のみならず、各方面に多大なる影響を及ぼす可能性があることから、私は思い切って小池さんに事態の全てを打ち明けた。無論、道下ら当事者と話し合いを重ねた末のことである。その結果、10月末付で道下は小池事務所を解雇され、当然、翌春の選挙出馬も露と消えた。この措置については、私は全く異議を指し阻むつもりはないし、その事が今回の志信会設立のきっかけになっている向きもあるが、これについては明確に否定しておきたい。さらに、11月に入って、私が委ねられている筈の百志塾構想に基づく活動が、事務所サイドから「小池の名を借りて、集金活動をするなどとはもっての他」というクレームをうけ、挙句、百志塾一期生として、12月3日に催した木挽司氏の決起集会には、小池さんはもとより、事務所サイドの誰にも参加してもらえず、百志塾構想は事実上暗礁に乗り上げることになる。
推測の域を出ないが、巷間伝えるところによれば、小池さんのかつての弟子である中田宏陣営への急速な偏り、小池学生部の処遇や道下問題に端を発する今井秘書との確執、私の公設秘書へのオファー拒否、木挽氏の帰属をめぐる政治的駆け引き等など枚挙に暇がないが、これらについていえば、例えば、中田氏が日本を動かし得るほどの活躍をしていることが、「小池にとってどれだけ屈辱的なことだと思う?」と指摘されたことがあったが、氏は紛れもなくかつての小池秘書であり、その勢いを逆利用するくらいでなければこの10年間、魑魅魍魎の世界を渡って来られた筈もなく、今井氏との確執云々についても、私自身は何時でも、またどんな相談事も受けてきたし、今もその姿勢を変じたつもりはない。公設秘書の件は8月の段階で既に結論を見ていたし、木挽氏の件とても、確かに小池さんの自民入党以降は、同陣営から出馬した印象を与えず、無党派を取り込む選挙戦術を取ったが、氏の決起集会はこの時期より1ヶ月以上前のことであり、また、その前後、木挽氏自身が事務所サイドから、「市議選は他との関係から、特別にあなたを推すことは一切出来ない」と念まで押されてしまっている。正直なところこの秋以降、小池陣営の私に対する対応が一変してしまった理由は、今も分からない。
ともあれ、事態の急変から早くも半年以上が過ぎた。木挽氏は、既に伊丹で議席を確保して、議会に新風を送り込んでいる。一方の道下修はといえばこの春、彼が大儀を捨ててまで追い求めようとした、叶わぬ恋が終焉を迎え、また流離の旅に出た。出来の悪い子ほど可愛いというが、私にとってはこの世界での最初の弟子であり、願わくは、ひとまわり大きくなった彼といつかまた夢を追いたいと思う。
ⅩⅢ.決断
年末も押し詰まった12月25日、小池さんは正式に“自由民主党”入党の意志を表明。その翌週の30日に行なわれた恒例のゴルフコンペに参加した支援者を前に、自民党入党の経緯を説明する小池さんは、私にとっては、これまでで、一番“らしく”ない姿だった。
自らが歩んできた道が二手に別れている場合、私はその岐路には常に三つの道があると考えてきた。今回のことでいえば、すなわち、①左前に歩を進めるか(小池百合子個人と一蓮托生)、②右前か(氏の理念を継承)、あるいは③来た道を戻るか(政治から距離を置く)、である。ここで、百志塾構想時の扉の塾長理念を引用する。
【私の政治生活も十年を迎えました。初志として掲げた「改革」の御旗は色あせるどころか、私の初代秘書中田宏君 (現:横浜市長)をはじめ、「志」を共にする仲間達に広く深く受け継がれ、今、「百志塾」で花開こうとしています。「政治を変える。日本を変える。」の理念の下、同志が集う道場が「百志塾」です。強く改革の意思を持ち続け、挑戦を重ねることは容易ではありませんが、同じ「志」を有する100人の仲間あれば、世の中は動きます。動かせます。逆に言えば、一人では何もできません。今、この国は、未来を設計し、責任を持てる、「心ある同志」の結集を必要としています。「百志塾」を互いの自己啓発と日本改革の場として共に盛り上げて行きたいと思います。今後とも変わりませず、ご協力のほどよろしくお願い申し上げます。 2002年7月31日 百志塾塾長 小池百合子】
既存の枠組みの中にいては、変えられるものも変えられない。昨夏の講演会でそう明言した中田宏氏や、陳志瑋氏との出会い、あるいは中山泰秀氏の憂鬱などから私が学んだことは、この大変革期には、もはや既存のフレームでは立ち行かないということであった。そして、悩んで悩み抜いていたその時期、光明のきっかけをくれたのが、前述の佐久間敏雅氏(本人は全く意識していなかったろうが)だった。志信会設立に出席の方々には既に紹介したが、彼は兵庫県神戸市出身、鹿児島のラサール高校~東京大学法学部を経て、外資系P&Gに入社。その後も駆け足で出世街道を直走り、20歳後半時には年収が1000万円を優に超えていた。その彼が一匹の愛犬を家族に迎え入れたことから、その後の人生は一変する。現状の日本人とペットの関係を憂いた彼は、敢然とその不条理さに対して挑戦を開始する。前途洋々たる若者が、たった一人で無謀ともいえる戦いに挑んだのだ。会社を辞し、新たに自身の会社を興す。その道中でついには家庭も失い、月々の生活に必要な5万円を役員報酬として、日々黙々と真摯に生きる態度に、私はすっかり魅せられてしまった。彼は寡黙で自らを誇示するようなこともなく、上記の話も随分経って知るに到るのだが、「政治を変える、日本を変える」百志塾の標語はまさに、彼のような真に勇気ある若者一人ひとりの挑戦の延長にしか有り得ないのではないか…。狭義的に政治家志望者を募るだけでなく、そういった志ある若者達が切磋琢磨しながら、それぞれのフィールドでこの世の有様を正していく。そして、そのような若者を支援する会の創設こそ、私が求める「人を創る」会の精神に合致するのではないか…。振り返ってみると、佐久間氏との出会いは、陳氏との出合いを通じて抽象化されたイメージを、より高い次元で昇華させる決定的な要因になったように思う。
確たる組織、支持団体を持たず、10年もの間、自らの信念と行動力だけで、地元の個人支持層を惹きつけてきた小池さんを心底、素晴らしいと思ったし、だからこそこの数年間、多くの方々に多大なる迷惑をかけ、それでも常に動員に頭を痛めてきた私にとって、今年(2003年)の1月、自民入党以来はじめて行われた小池百合子主催の新年会が、かつてないほどの盛況ぶりだったと伝え聞いた時、「これで小池事務所での私の役目は終わった。」と思った。私は、今回の小池さんの選択についてとやかくいう資格や立場にないが、この1ヶ月、悩みに悩んだ結論が出た瞬間でもあった。
私の心境はまさに3年前、小池さんが自由党を離脱した時のステートメントそのものだった。『最後に、小沢党首【小池百合子】の政治家としての爆発力、構想力、責任感、スピード感、ダイナミックさ…、私はあらゆる面で高く評価し、尊敬しています。それは今後も変わらないでしょう。山の頂きを極める道程を異にするだけです。この国が小沢一郎【小池百合子】という稀有な人物を必要とする瞬間は必ず来ます。ただ苦しい時も、一生懸命支え続けたはずの私にこのような結論を出させないでください。お願いします。』
ⅩⅣ.志信会
名称の由来は、百志塾改め、大西信弥とその被害者の会。2003年1月31日、正式名称を志信会として登録を済ませた私は、新たな活動を開始する。3月27日の設立総会で講演を陳志瑋氏、進行を佐久間敏雅氏に依頼したのは、前述の経緯があってのことだ。私にとって政治とは、人に規範を指し示し、それを実践していくことに他ならない。この度、私が創設した志信会は、以下の4つの行動規範に支えられている。すなわち、
①己を信じ、(自らの意志を信じる。意思と力で社会を変えることができると信じる。現状を嘆くだけで、他者へ責任転嫁してはならない。)②夢を信じ、(自らの大志を信じる。大志はゆるがぬ意志をもって世に明言する。理念を提言することを怖れてはならない。)③人を信じ、(自らの仲間を信じる。彼らこそが社会を変える原動力となることを信じる。少数であることを恥じてはならない。)④実践する。(大志に恥じない生き方をする。たとえ一人になろうとも、「わが為すこと」をあきらめてはならない。)
私が政治の世界に一歩踏み出す以前から、そしてこれからも変わることのない自身の理念でもある。この行動規範を踏まえ、今春の統一地方選で支援した仲間のうち、すでに各地で地方議員として活躍をはじめている彼らと、志信会のかかわりをブリーフィングすると、鬼木誠氏(福岡県議)は佐久間敏雅氏のラサール高校の後輩、筒井信雄氏(西宮県議)は元中田宏衆議院議員秘書、片桐紀子氏(横浜市議)は陳志瑋氏たっての推薦、村山祥栄氏は東京時代のかつての小池東京秘書で、素晴らしい感性の持ち主である野口威光氏の後輩に当たる。木挽司氏(伊丹市議)はいうまでもない。そしてこの度、横浜および日本の発展に寄与しようとする宏援連合会や、当時の新生党学生部に籍を置いていたメンバーを中心に結成された東京・政策調査会EGG、さらには福岡・政援隊などと連携し、“悪しき秩序”を打破するための合同研修会を、志信会主催により横浜で開催する運びとなった。現代の龍馬や晋作、西郷さんに会ってみようとする方々には是非とも参加頂きたい趣意の会合である。
ⅩⅤ.最後に
志信会ボードメンバーについては、百志塾構想で声がけをした方に漏れなくお願いした。会の設立~統一選挙応援までの費用の捻出に時間的余裕がなく郵送にて請求をしたが、前後の状況が掴めず、困惑した方々には改めてこの場を借りてお詫び申し上げたい。逆に、百志塾構想のおりに商いの現状などを鑑み、敢えて声がけを控えた方にも誤解を生じる余地があったことを認め、お詫び申し上げる次第である。もとよりこの経緯を踏まえ、改めて出資者として名乗りをあげて頂ければこれに優る喜びはない。最後になるが、今春の選挙時、新世紀開拓コミュニティと志信会の整合性について深く悩んだ末に、私に直訴した小林氏がその後、木挽会長に対しコミュニティ役員の辞任を申し出たと聞いた。はからずもこの状況を生んだ当事者のひとりとして申し訳なく思う。
僭越ではあるが、新世紀開拓コミュニティのさらなる発展を現執行部に付託し、この3年間の歩みの結びとしたい。
後記
過日、久方ぶりに小池さんから「徳島県知事選挙の応援に入るのだけれど、車での往復をご一緒してもらえない?」との連絡が入った。私は快諾した。そして、ちょうど1ヶ月前の5月17日、道中の6時間ばかりをご一緒した。思った以上に会話が弾み、懐かしさが胸に込み上げてきた。しかし一方で、互いの核心には、結局、触れぬままの旅であった。「多分、私の思いを一番理解してくれているのはこの人に違いない…。」認知はしてもらえないだろうが、私はこれからも小池理念の継承者として、限られた人生を精一杯歩んでいく所存である。
故に『わが為すこと、我、知る』