中村 崇さん
大西会長を知ったきっかけ(紹介者)
私と大西会長の出会いは、確か平成12年の衆議院議員選挙(6月25日投票)の時だったと記憶しています。小池百合子代議士の選挙応援のために地元兵庫6区に初めて入った私は、大西信弥青年部長と初めてお会いしたわけです。
(末次一郎先生の事務所を卒業し、日本新党に移る後押しをしてくれたのが小池百合子代議士でした)
当時は小池代議士が自由党から分かれて、保守党から立候補した選挙でした。
快調に街頭演説や流し遊説(うぐいすではなくカラス)をこなし、いよいよメインイベントの川西駅前での公明党さんを応援に迎えての大演説会……気合いを入れて前座の演説をしようと、深呼吸をし、いざ第一声を!と思った瞬間、小池後援会大幹部(阪神タイガース応援団長)より「はよ、しゃべらんかい!」と怒鳴られました。
ここは呼吸を整え、もう一度やり直しです。よし、さあしゃべろう!と次の瞬間「はよ、しゃべらんかい!」と再び、怒鳴り声!!
またもや出鼻をくじかれ、さすがにその方をじっと見ました。そして目で合図して(わかってくれると思ったんですけど)、よし今度こそ第一声!!!とそこにかぶさり「何してんねん。はよ、しゃべらんかいと言うてるやろ!」と三度の、怒鳴り声です!!
さすがに気の長い私も 「これからしゃべるんや。じゃませんといて!」と慣れぬ関西弁で言ってしまいました。そんなえらい人とは知らず……
もう大変です。怒鳴りまくられ、小池は二度と応援せんと言われ、なんでこんな理不尽なんと思いつつ、ひたすら謝る私……
最終的にとりなしてくれたのが、何を隠そう大西信弥さんでした!
実は「何言うてんねん、その前にも会っとったじゃないか!」と大西さんには言われておりますが、何にせよその印象はあまりにも強い出来事でした。
そして、その年の秋には、もう語りつくせぬほど大西会長と深い縁が出来ました……
自身にとっての大西会長とは(被害者度)
翌年、平成13年の夏の東京都議会議員選挙(板橋区選挙区)に私は、無所属で立候補を決意した私は、平成12年12月より早朝の駅頭演説を始めました。
12月よりは朝の6時から板橋区内の24の駅頭に順番に立ち、演説を繰り広げました。冬の寒い時期を超えた春からは、朝の5時には駅頭に立ちました。
そこにです。わざわざ、宝塚から、大西会長は、な、なんと週に1~2度、板橋区内の朝の駅立ちに付き合ってくれたのです。宿泊先から始発電車に乗ってきてくださったのです。私が演説している間に、チラシを配ってくれたのです。
木挽さんや○○さんも一緒に立ってくれたことがございました。
私の同級生だって、朝立ちを一緒にやってくれる人なんてほとんどいないのに、大西さんは一体何回一緒に立ってくれたのでしょうか……少なくとも20回は立ってくださいました。
その選挙に落選してしまったことは悔やんでも悔やみきれません。完全無所属の私に対し、12,000人を超える多くの板橋区民が投票をしてくださったのですが、結果は第一次小泉旋風に吹き飛ばされた形でした。
大西さんの思いに応えることが出来なかったことが本当に悔しいです。やはり私だけはどう考えても被害者ではありません。被害者の会の中の唯一の加害者であります。
今後大西会長に期待するもの
あれから9年です。
落選後は、大学の4年上の先輩の健康食品会社に拾われ、生きてきました。2人の子供もどんどん成長してきました。
そんな中、50歳を超え、自分自身の人生をどう考えるか悩んでいた昨年の夏、杉並区長の山田宏(私の仲人でもある)より電話が入り、新しい国民運動を興すから手伝えと電話が入りました。
私は即断し、会社を辞し、その国民運動体の「よい国つくろう! 日本志民会議」の事務局で働いてきました。そしてこの2010年の4月18日に、日本志民会議を母体に、首長出身者が多いことが特徴の「日本創新党」(にっぽんそうしんとう)が生まれ出たわけです。
今後は、何がどうなるかさっぱりわかりません。政界再編うんぬんかんぬんは、必ず起きてくると思います。
しかし本当に大切なのは、まず「どういう日本にしたいんだ!」という国家の基本理念を共有した人たちが、一つのグループ(政党)を創り、その基本理念をまず、ぶれず曲げずに訴え続けることだと思います。
細かな政策は、その都度刷り合わせてもいいけれども、大事なのは少なくともその党に集まっている人が国家観、基本理念を共有していることだと思うのです。
そうなると必ず政界再編の中で、この大西会長を中心とする志信会の同志が皆一堂に会する……これは夢でない!!! と確信していることを表明して筆を置きます。
